佐々木さん×前田さんトークショーレポート(2回目)
佐々木敦さん「批評とは何か?批評家養成ギブス」(メディア総合研究所)
前田司郎さん「大木家のたのしい旅行」(幻冬舎)刊行記念
佐々木敦×前田司郎トークセッション「ながくトーク」
(2009年1月22日、場所はジュンク堂書店新宿店8階喫茶室にて開催)
佐々木:あの、大木家のほうの話でもうひとつ伺いたいのはその、地獄の中身が普通に考えてこう、地獄らしからぬ地獄・・・
前田(笑)
佐々木:地獄っぽくない感じじゃないですか。どういう風にして考えられたんですか?
前田:地獄はこんなもんだってのが、頭の中でけっこうかなり詳細に作られていると思ってて。釜茹で地獄とか・・・釜が開発されるよりも前に、人間は多分いたはずだから。ということは、釜が開発される前の地獄には釜茹ではなかったんですね。ということは、人間の文化が地獄に下りてきている。
佐々木:はいはいはい、前田:地獄、どうなってるんだと。今釜茹でとかされてもあまりピンとこない。釜かよ、もっとあるだろ、って、
佐々木:(大木家の中に登場する地獄は)すごい大きく飛んでるような気がして。猫の畑とか、なんかすごく、シュールという言葉が合ってるかどうか分からないのですが、頭の中に風景を思い浮かべちゃうような。こう、映像的な(ところが)この作品はあると思うのですが。ビジュアルの発想というのはある?
猫の畑
- 作者: せなけいこ
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 1972/12/01
- メディア: 単行本
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変わり映えのしない畑が続いている。目の前の畑に目を留めた。畑の茶色い土に白い何かが露出しているのだ。
信義は驚いた。
それは良く見ると、猫の頭の部分だったのだ。二人は立ち止まる。
「猫が埋まってる」咲が言う。
猫は土から首だけ出しこちらを見ている。良く見るとあちこちから猫の首が飛び出していて、皆こっちを警戒するように見ている。時々、あくびをする奴や、舌で口の周りを舐める奴も居る。
「猫畑だ」信義はつぶやく。隣で咲が肯く。
「猫を植えて育ててるんだ」信義は咲を見て続ける。(大木家のたのしい旅行・P118〜119より)
前田:旅行を、最近まあ、よくするんですけど、学生時代のころから、ちょっとした、鎌倉に・・・とか、そのくらいのことなんですけど、その中でなんかすごい、見たことのない風景を見る、ほんとに誰もいない村とか、人の歩いていない通りとか、なんかすごい変な色の空とか・・・そういうものを見て、昔の人も地獄を想像したりするときになんかそういう、日常の風景から着想をえたのかなあと、そういうことを思って
佐々木:ああ
前田:だから猫の畑とかも、猫が埋まってるわけじゃないんだけど、なんだかわからないものが植えてあるんだけど、それが猫にしか見えないとか
佐々木:ああ、じゃあわりとこう、前田さん自身も体験談みたいなところから引っ張ってるというところはあるんですね。
前田:そうですね。発想を得ることはたぶんすごく多いと思います。
佐々木:なんかそういう日常性とかあとその、ごく普通の生活みたいなものと、シュールなと言ってもいいような、この小説の場合に限らず、前田さんの作品ってシームレスに繋がっていて、例えば日常VS非日常みたいなことではなくて、そこはこう、いつの間にか非日常のほうにいっちゃってるみたいな。今の話で、すごく納得がいったというか、例えば旅行に行ってこう、なんかわけがわからないような畑を見たって言うのも、畑を管理している人は何を植えているかわかっているのであって、でも前田さんは旅行者として行ってパッと見たからわけわかんないわけじゃないですか?でも、新日本紀行みたいな見るからに誰が見てもどう考えてもとんでもないっていうのではなくて、むしろその生活じゃないところに根ざしているんだけど、でも離れたところから見るとすごい奇妙なものに見えてきて、延長線上にすごい幻想的と言ってもいいような場面がいっぱい出てくるんだなというか。
前田:なんか、すごい日常って怖いんだなあと思って。恋人とか、隣に寝てる時に自分が起きててその人がなんか急に寝言を言ったり歯ぎしりをしたり、普段起きてるときから歯ぎしりする人はあまりいないですけど、それがなんか寝てる時に急に歯ぎしりとか始めると大丈夫かなと、急にこわくなって。なんか、そういう、物凄く知ってるような間柄の人でも、家族とかでも急に、いつもにこやかにしているのに、一人にしているときにボーっと外を見ている家族とかを見たときに、なんかすごく知らないものを見た、なんかそういう怖さとかがあって。例えばその(小説に登場する)五反田とうきゅうも、物心ついたときからあるんですけど、閉鎖されたときのバックルームのこととか知らなかったりとか、閉鎖されたあとの屋上がどうなってるか知らないとか、隣のマンションの何階の何号室に誰がいるとか知らないとか、それが結構怖くなったことがあって。その感覚は僕だけじゃないのかなと。それを小説に書いています。
裸と食事
- 作者: 尾崎紅葉
- 出版社/メーカー: フロンティアニセン
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「裸で何かをしてみる」「裸のときに何かを宣言する」前田さんの小説にもしばしばそのような情景が見受けられる・・・恋人の裸体に落書きをして、裸の恋人に怒られる、(グレート生活アドベンチャー、新潮社)温泉に入っている時に神様が裸で登場(誰かが手を、握っているような気がしてならない、講談社)夜間、路上で裸になるのに挑戦してみる(恋愛の解体と北区の滅亡、講談社)など。SPA!の連載「心のコスプレ」にも最近「お宮」と「前田さん」がらみでそのような記事が。このように書くと誤解を生みそうだが、前田さんを舞台上で見るときいつも薄着だなあと思う。トークショー当日もかなり薄着であられたのだが、実際時折前田さんが何か服を重ねて写真に写っておられるのを見ると違和感が出るのは、やはり薄着のイメージがあるからであろう。昔「着信アリ」という映画を見たとき、終わってから友人と一番最初に「許せない」「バカじゃないのか」「絶対死なないぞあれ」となによりも盛り上がったのは、ホラー映画のヒロインであるはずの柴崎コウが、ものすごくやばい場面、自分が明日死ぬと予告通知があったような場面で「ジーンズの上にスカートを」重ね着していた場面であった。その当時は「死ぬ前日に何だその余裕」と思ってあれだけ怒ったんだと思っていたが、あれだけしっくりこなかったのは、それだけの理由ではなかったのではないか。街中でも薄着の人、例えば女子の人とかで、1年中(上着は着ますが)半そでとか、背中を開けた服を着ている人を綺麗だなあと感じるのは、外に出している部分にいやらしい意味ではなく感じ入るからではないか。昔、肩甲骨の部分に四角い穴が開いているギャル服をわりと毎日着ている人がいたが、彼女が「この間、背中をガードレールにひっかけて怪我したよ、でも酔った時はここから(背中から)酔いがぬける気がして気持ち良いから」と言ったときは卒倒しそうになった。何てくだらないのに、何て美しい台詞なんでしょうか。柴崎コウに腹を立てたのは、もっと(こわい)世界に対して薄着で顔向けしろ。着てる場合じゃないだろ。頑張れ。と感じたからなのだと思う。物凄い体育会系の意見みたい。
前田さんの舞台上での薄着は、ほとんど布団やタオルケットや床に寝るという行為が対になっている。肩甲骨の彼女の「薄着」が「生」の記号なのだとしたら、五反田団の薄着は寝るという行為を行うからこその結果としての薄着、「死」を示唆する薄着である。
薄着、その果ては裸が、=すなわち死に結びつくのだとしたら、裸のときに食べるという行為は一体、何なのか。
佐々木:やっぱり最初のディテールで、一番インパクトがあったもののひとつとして地獄温泉(注)が。あれはどこから?温泉なのに、上のほうにあったりして。(注:大木家のたのしい旅行において旅館「いいじま屋」の47階にある温泉。らせん階段で上る。温泉のお湯は色、感触とともにビーフシチューとしか思えない形状をしている)
前田:あれはなんだろう、わかんないですね、温泉って僕良く行くんですけど、温泉って何で気持ちいいのかよくわからない。なんか、泉質とかがいいとかあるのかもしれない、そんなの良くわからないですけど。なんか、裸になるのが気持ちがいいのかなと。
佐々木:(笑)前田:裸でご飯を食べることってあまりなくて・・・
佐々木:そうですね。
前田:なんで裸の時ご飯食べないんだろう、とかいうことを考えて。で、裸のときに、風呂に入ってるときにシチュー出されたらテンション下がるかなとか、それくらいのことしか考えてなかったんですけど。
佐々木:(笑)それがうまく合体するとあの温泉に。
前田:温泉のお湯とかも、なんか友達が良く温泉に入ったりして。なんかヌルヌルしてるよねー、とか言って。
佐々木:ああ、ありますよね。
前田:凄いヌルヌルしてるのを良いことみたいに言うんですよ。ヌルヌルすればするほどいい、みたいな。